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篆刻の歴史

篆刻の歴史

印の起源は大変古く、今から五千年前にはメソポタミヤで用いられ、オリエント、ヨーロッパやアジア、中国にまで伝播しました。入門に入る前に、篆刻が芸術として成就するまでを簡単に触れておきます。

春秋・戦国

中国での印の始源は余りはっきりしませんが、殷代に既に印が存在したと伝えられます。春秋戦国時代の初期には多くの例が見られ、大量の古鉨が使用されました。この戦国期は、諸侯の治乱興亡と商工業の急速な発達の時代で、貨幣や印章は流通経済の重要な役割を果しました。『周礼』に「貨賄には璽節(印章)を用う」といい、『説文』に「印は執政の持する所の信なり」とあります。印は自分の信用を示し、権利と義務を表す所有標章として今日まで用いられてきました。

秦・漢

秦の始皇帝が中国を統一して中央集権組織が完成し、諸制度が改革されるのにともなって官印の制度が制定されました。皇帝が用いる印を「璽」、臣下が使うものを「印」と称し、「璽」のみが玉や金で作られました。璽印は、秦以前には官印・私印を問わず玉や金で作られました。璽印は、秦以前には「鉨」といいましたが、後に「鉨」が「璽」に代り、戦国期の六国の古印を「古鉨」とよび、先秦すなわち秦帝国のものを「秦印」と区別しています。

漢代には官職制がさらに整い、官爵の上下により材質、鈕式、綬色などを区別して身分制度を明確にし、製作は精緻を極めました。当時は紙がなく、文書は専ら木簡に書かれ、簡牘をくくった鈕の上に粘土を加えて鈐印し、開封を禁ずる封検に用いました。これを封泥といいます。

漢印がほとんど白文なのは、粘土に押すと逆に文字が浮き出るからです。封泥は前後漢代が最盛期で三国時代頃まで用いられ、後漢に発明された紙の普及により、南北朝から紙に朱で押す方法に変化しました。それにともない、官印も大きめの朱文印に変りました。西晋頃はまだ漢印の風格を残していますが、東晋南北朝対立と各国の興亡、社会の混乱につれて官印の権威の崩壊、その制作も固定化、草卒化し堕落の一途をたどります。

漢代に盛行した私印は官印以上に精緻多彩な美を展開しましたが、封泥の消滅とともに私印の用も終息して一時的な空白期を迎えます。

隋・唐

隋代に入ると官職印が廃され、官署印だけになりました。唐代は隋の様式をそのまま受け継ぎ、楷書的な篆書ともいうべき書体を扱った隋唐独自の印が出現しました。隋唐と国交した日本は、この頃の印が移植されて「倭古印」の源流となります。また、一方唐代には印篆を複雑にしたような九畳篆の原形が出現します。

宋の官印は唐印を倣い、唐代に萌芽した九畳篆が宋代に完成します。金代に入ると大印になり、これが元・明・清の後代まで継承されます。宋元期には民間雑用の私印、花押印が発生し、元代には蒙古文字独特の特異な体が現れ、明代にはこれから転化した合同印・糸印が出て我が国にも盛んに渡来しました。唐代に発生した収蔵印、堂号印等の使用は書画と映発する観賞の対象物となっていきました。

元代に入ると刻りやすい蝋石が発見されて、文人が自ら印を刻すようになり、篆刻が芸術として発展していく端緒となりました。

明・清

明末清初に起った考証学は金石趣味の興起を促し、篆刻も古典復帰の運動を展開し、多くの名人達がすぐれた作品を残していきます。さらに清代の金石学、文字学の発展によって古印以外の篆書作品の神趣が摂取され、篆刻の芸術的内容はますます充実したものとなりました。

日本の印

日本では奈良時代に大宝令(七〇一年)によって印刷が始まり、中国の隋唐の制に倣った篆書体らしきものが使用されていましたが、平安時代には和様風の「大和古印」「倭古印」と呼ばれる我が国独特の印が用いられました。

平安後期には官印の制度が衰え、鎌倉時代には入宋した禅僧による私印の使用が普及し、室町時代には書画の落款が盛んになりました。明代の禅僧の帰化により、明の篆刻が我が国に入り、江戸時代中期に文人間で試みられました。明治以降、中国との交流が盛んになり、多くの名手逸材が輩出し、篆刻芸術が大きく開花しました。